虫干し


帰省すると、いつも雑誌や書籍の整理をする。整理といっても、売るわけでも捨てるわけでもなく、右においていたものを左に、床に置いていたものを本棚に移動するくらいで、全然片付いてはいない。もっとも片付けるのは目的ではない。本や雑誌って、ずっと置きっぱなしにしておくと、カビたり、痛んだりするのだ。
小学生の頃、当時憧れていた、新聞記者だった人から貰った本を大切にしたいから、ガラス戸のついた本棚にずっと入れておいた。手垢がつかないようにと、その本を読まないようにしていた。読みたいときは、わざわざ図書館まで行って借りた。
ひとり暮らしをはじめる前に、数年ぶりにその本を手にとってみたら、カビていた。カビだけではなく、何かの虫が巣をつくった跡のような綿もついていた。
今度はそういうことがないようにと、以来、実家にいるときは、虫干ししたり、干さなくてもとりあえず外の空気にあてたりするようになった。


今回、整理しながら、雑誌のバックナンバーを読み返していて、「雑誌って、どんどん雑じゃなくなってきているんだな」と改めて感じる。とくにグラビア誌、ビジュアル誌*1を10年前の号から読んでいくと、強くそう感じる。


私が雑誌をよく読むようになったのは、阪神大震災オウム事件のあった1995年。ちょうど背伸びをしたい時期に、社会というものに漠然とした興味を覚えるになった頃に、私の好奇心を満たしてくれたのが雑誌だった。新聞やテレビでは浅いような気がするし、書籍だとちょっと重たい。好奇心を満たしつつ、さらに興味や関心を広げてくれたのが、雑誌だった。
その頃は、何もかもが新鮮で面白かったように思う。
過去は美化される、思い出はいつもキレイだけど、やはり、この10年間で(全体として)雑誌が変わったのだと思わざるを得ない。
デザイン(レイアウトという言い方があまりされなくなったのは、いつからだろう)や企画が、どんどん雑じゃなくなっている。それを洗練といえば、洗練であろう。成熟といえば、成熟であろう。


雑誌とて、商売である。実売収入や広告収入で、ン千万稼がないと雑誌を出し続けることはできない。
創刊から何年も経ち、雑誌が成熟してしまうと、部数は頭打ちになる。雑誌としての勢いは薄れていく(ただ、雑誌それ自体の勢いは薄れても、追い風が吹いて、雑誌に勢いをもたらす場合も、ある)。
雑誌は生物である。イキモノである以上、動かなくなったら死んでいるも同然。ナマモノである以上、新鮮じゃなくなったら、食えたもんじゃない。煮たって焼いたって、乾燥させたって、それでも消費期限は必ずくる。
で、そうなったときどうするか?
売れ続けるために、読者を減らさないようにと保守的になる、企画もマンネリ気味になる。マンネリかもしれないけれど、マニアックさをもうちょっと強めれば、コアな読者は必ずついてくるはず……という戦略。
一方、その逆の戦略をとる場合もある。
読者を増やしていきたいから、マニアックさは薄めよう、企画を記事をもっと一般的にしようともする。コアな読者は減るかもしれないけれど、それ以上に新しい読者を獲得できるのではないか……という戦略。


「雑誌のくせして、雑じゃないから、面白くないんだよ」と、一年前の私は言っていた(最近でも言っていた気がしなくもないが)。
でも、出版業界に身をおいて、見方がちょっと変わった。「雑誌だって商売。ボタンティアでやっているわけじゃないんだから」。そういうふうに思えるようになった。
そう思いつつもで、一読者としての私は、つまりまだ外の世界にいるものだと思っている私は、つい、雑誌や同業者についての批判を口にしてしまう。そして、ときに純粋な一読者としてではなく、業界人目線を交えた批判を口にしてしまう。
それだけはしてはいけない、ミーハーな身内批判はしてはらないと誓ってはいるものの、いつのまにか、どっぷりとつかってしまっていたのだろう。いつのまにか虫が巣食っていたのだろう。最近、何度かしてしまった。


足元ばかり気にしていないで、たまには外に出て、虫干ししようか。
ときどき虫干ししながら、とりあえず自分ができることをできる範囲でやっていこうか。
先週末から今日にかけて、そんなことを思った。

*1:「ブルータス」「ナンバー」「POPEYE」「NAVI」「AERA」など