どこかの誰かさんが、自己実現なんて厄介な言葉を考え出したばっかり

大学時代の友人と久々に呑む。
もう1年以上会っていなかった。


最近、大学の同期と会うと、必ずといって言いくらい、「転職」の話が出る。
曰く「いまの仕事がつまらない」
曰く「自分の能力は高い(から、この仕事にはもったいない)」
曰く「上司がダメ」
曰く「金持ちになりたい」
大学4年の頃、「一生この会社のために尽くすよ」とか「●●(某財閥)だから、一生安泰でしょ」「これからは俺たち(=某金融)の時代がはじまるから」などと言っていた人ですら、いまは「転職」という言葉を口にする。
サラリーマンつーのは、そういうものなのかもしれない。上司や会社の愚痴を語るもの――、そういうものかもしれないと思いつつも、これは私たちの世代(と、ひとくくりにしたくはないけれども、便宜上そうしておく)に共通する「自己実現しなければならない」という刷り込みがあるからではないか。


宮部みゆき名もなき毒』の中で、ある女子高生はこう語る。

「〝どこかの誰かさんが、自己実現なんて厄介な言葉を考え出したからだ〟ってわたしたちなんかには、とても痛い指摘です」(中略)
「わたしたち、まだどこのナニモノでもないでしょ? いずれはどこかのナニモノになりたくて一生懸命やってるつもりだけど、望んだ結果が出るかどうかわからない。結果が出る人と出ない人の差がどこにあるのかもわからない」(中略)
「最初から、自分はどこかのナニモノかにならなければいけないんだって、考えずに済めば楽ですよね。でも、もうそうはいきません。わたしたち、みんなそうしなくちゃならないってことを知っちゃったから。目覚めちゃったから」

「どこかのナニモノかにならなければいけない」ってことを「知っちゃったから」「目覚めちゃったから」、考えずに済ませられない(ここらへんのことを思想史の観点から論述しているのが、浅羽通明『野望としての教養』)。


いわゆる「勝ち組」にも、そして「負け組」にも、「ナニモノかにならなければいけない」ということが共通して刷り込まれているのではないか。
「ナニモノかにならなければいけない」から、ベンチャー企業を立ち上げる。
自分は「ナニモノか」わからない。だから、自身の価値を客観的に量るために「いくら金を稼げるか」を重視する。
自分の価値をはかるために、転職をする。
一方、社会に踏み出さない人もいる。社会に出ると、自分というものが「ナニモノでもない」ということが明らかになってしまうから。


そんなことをグダグダ考えながら、呑んでいた。
仕事の愚痴をこぼそうと思っていたのに、「自分は恵まれすぎているのかもしれない」と感じ、申し訳ない気がしてきたところで、お開きに。