「ユリイカ」8月号続報

仲俣暁生「陸這記」には、「ユリイカ」8月号の表紙写真が掲載されている。

仲俣はこう記している。

雑誌はもう、バックナンバーを楽しむためのオールドメディアなのだ。たぶん、いま新古書店で二束三文で売られている雑誌のほうが、日々生産されるゴミのような雑誌よりずっと面白い。それは、「かつて雑誌は面白かった」ということではなくて、雑誌というものは出てすぐ読んでもダメで、数年から十数年寝かしてようやく味が出てくる、そういうメディアになりつつある、ということなのだと思う。「ユリイカ」という雑誌自体が、ずいぶん昔からそうだろう。

ユリイカ」や「現代思想」という雑誌は、ずいぶん昔から<数年から十数年寝かしてようやく味が出てくる、そういうメディア>だったとは思う。また、いま読んでも面白い「エンタクシー」は、おそらく十数年寝かしたらそうとう味が出ていることだろう。

先の一文を仲俣はこう続けている。

でも、いまはせっせと未来に向けた「バックナンバー」を作っているような雑誌のほうが、新しさを追いかけているポーズを崩せない一般の雑誌より、ずっと潔いのかもしれない。いちばん新しいことは、いまじゃ書籍かネット上にしか存在しない。理由は簡単で、集団はつねに個人より遅れるからだ。そのことは出版をやっている人間なら誰でも知っているのだが、雑誌に「夢」を求めつづけたい読者だけは、決して知りたくないことなのかもしれない。

この一節に私は違和感を覚える。
私は<雑誌に「夢」を求め続けたい読者>ではあるものの、雑誌に「新しさ」なんて求めていない。私が雑誌に求めているのは、雑誌性である。雑誌というメディアには、テレビやラジオ、新聞、書籍、ネットやその他さまざまなメディアにはない性質がある(それを私はうまく表現できないので、とりあえずそれを「雑誌性」と呼んでおくことにする)。
たとえば、いま雑誌性にあふれている(と私が感じる)雑誌は、「実話ゴンナックルズ」であり「ノンフィックス」であり、「TVブロス」、「本の雑誌」「彷書月刊」「サイゾー」などである。
そのような雑誌のつくり手は、<せっせと未来に向けた「バックナンバー」>を作ろうと思っているわけでも、<新しさを追いかけているポーズ>をとろうともしていないだろう。