「HB」vol.3 愉しいチェーン店ライフ!

あれは何年前のことだろう。「ファスト風土」という言葉が流行りだす前だったと思う。
その頃の私は、こんなことについて考えていた。以下、当時ある場所で発表した文章の一節。

ひとは、日々の些細な出来事――家族や友人との会話であったり、ショッピングを楽しんだり、街を歩いたり、自動車でドライブしたりといった、日常生活のなかでありふれていること――から、そしてメディアなどの影響を受けつつ、少しずつ社会認識を深め、自分なりの世界観をかたちづくっていく。つまり、自身の社会認識や世界観といったものは、多かれ少なかれ「育ってきた環境=文脈」によって規定される。だから、「育ってきた環境=文脈」が似かよっている人同士であれば、気が合ったり、話が合ったりすることが多い。逆に、「育ってきた環境=文脈」が異なれば、意見が食い違ったり、「話が通じない」と感じたりすることがある。
「おなじ日本人」――といった物言いは用いたくないけれども、ここでは話を進めるために、「日常生活の大半を日本で過ごしてきた人同士」といった意味で用いることにする――なのに、「育ってきた環境=文脈」が近似していると思われるのに……私にとっては、「なんでそうなるの?」と感じる行動をする人が結構いる(中略)
「なぜ、〈私〉はそう思うのに、〈みんな〉はそう思うんだろう?」ということをものごころついたときから少しずつ考えてきたし、その答えを探るために、できるだけ冷静に〈私〉という文脈を客観視し、〈みんな〉の文脈を探ろうとしてきた。

こう考えていた*1頃、同世代の人たちに「マックって、昔はキラキラしていたよね? 御馳走だったじゃない? バリューセット発売前って、小学生のおこづかいでは食べられないくらいの値段だったもの」と話したところ、「えっ、そうだっけ?」という反応を受けた。さらにセブンイレブンにシェイクがあった、ホットコーヒーがあったという話になると、誰も同調しない。小学生ぐらいのときって、シェイクとか、コーヒーとか、なんかさ、そういうの、かっこよかったじゃない? えっ、違うって……。

バリューセットなるものが登場したのは、1994年。たしか500円、ワンコインで買えることをウリにしていたはずだ。それから、ほどなくして、ハンバーガーの値段を半額にし、「ライバルは、コンビニのおにぎり!」と経営者が言い出し、マクドナルドは独特のオーラをなくしていく。お金をあまり持っていない高校生や大学生の溜まり場、しゃべり場になっていった。その時期は、すかいらーくが低価格路線(=ガスト)と高級化路線(=すかいらーくガーデン)を打ち出し、新聞広告やチラシでクーポンが認められたり、ミスタードーナッツが1個100円で売るようになったり、サイゼリアが店舗の大量出店をはじめたりしたタイミングと、ほぼ重なっている。また、ダイエーが失墜していく時期と機を一にしている。


チェーン店からキラキラした感じがなくなっていったころ、ものごころを覚えだした私には、チェーン店に対して、アンビバレンツな思いがある。いや、何もチェーン店だけに限らない。ここ10年前後に「一九七二」年とは違うカタチで、大きな転換をした日本社会――表層的には「戦後」が終った日本社会―ーに対して、複雑な思いがある。そこに住む人たちだけではない、そこに生まれ育った自分自身に対しても。
まだまだチェーン店が輝いていたあの頃。その頃のノスタルジーに、ひたりたいわけでは、ない。その気持ちもなくは、ない。厳然として、ある。

でも、誰もそのことを語らないじゃない? マックが、スカイラークなどのファミレスが、村さ来や養老之瀧が単なるチェーン店ではなかったころのこと、誰も語らないじゃない? 経済的には「失われた10年」といわれるけど、実は違うじゃない? 『パパは何でも知っている』とか『奥様は魔女』とか『ララミー牧場』とかさ、そういうアメリカのホームドラマが描いた、夢の生活を送れるようになった。それは、チェーン店に負うところが大きい。そこそこの値段で、そこそこの愉しみを得られるようになったのは、チェーン店のおかげだもの*2


失われた10年といわれるけれど、必ずしも、そうではない面があって――そういうところを、今回の「HB」では、描きたかった。自信は、あまりない。あそこをこうすればよかったな、これを書きたかったなと思うところが結構あるけれど、今回の特集を通して、何か感じ取ってくれたら、嬉しい。

*1:いまでも、このことを考えている。

*2:しっかし、旧国営鉄道の立ち食いソバ屋は酷いね。うまくないじゃなくて、マズイじゃない? なんでアレが許されるわけよ