ああ、週刊誌……。

日付が変わったころに、コンビニに走る。週刊誌の雄といわれる雑誌が、あの一連の騒動をどう報じたかが気になったので。
某週刊誌は、特集記事のリードで、こう書いていた。

政治家・●●●●は死んだ。それは敢然たる事実である。(中略)この特異な人物の“政治生命”は終焉を迎えたのだ。国民が■■辞任に唖然として僅か2カ月足らず。政権奪取寸前だった●●氏は、一体、誰に葬られたのか。

少なくとも、きょうの動きをみる限りでは、葬られるかもしれないのは●●ではなく、ジャーナリズムの領域を逸脱してしまった某新聞ではないのか。
そうそう、私は11月4日の日記でこう書いていた。

新聞読まなきゃと、朝日讀賣の朝刊に目を通す。別に政治に対して(人並みの関心はあるものの)主張はないけれど、久しぶりに新聞を破りたくなる。なんでこの人たちは、紙面を、言葉をこういうふうに使うのだろう? 新聞の一面トップ記事というのが、どれくらいの重みを持っているか知っている――より正確に言えば、一面トップ記事の重みを誰よりも意識している――くせに、こういうふうに使うとは

「いきなり辞任」という点では、ABEと同じだけれど、OZAWAの辞任は、それとはまったく違った意味を持ってしまうだろう。後世、「あのときのOZAWAの判断は正しかった」と判断されるはず(少なくとも、これでOZAWAの政治生命は延命だ)。やれやれ。俺は別にJIMIN支持でもMINSYU支持でもないけどさ、何だかね。

ふふふ。日曜の時点で、私はちゃあんと、某新聞の問題と「OZAWAの政治生命は延命だ」を指摘している。って、俺は「事情通」を自称する某評論家*1かよ!
と書いたけれど、この「予言」は、いつか必ず「的中」すると思って書いた。過去の例を持ち出す必要ない。直近の「選挙=実績」で「大成」をおさめた(=「そこそこの成功」をした)人間は、そのすぐあとで何かしでかしても、「いつか」それなりに評価される。多少なりとも「実績」をあげたということだけで。
逆も、しかり。「実績が大してない」、いや、それどころか「ちょっとした失敗」をした時点で、「これは大問題になる」と指摘した「予言」も的中する。ちょっとした失敗をする人間は、えてして「いつか」大問題を引き起こすから。
それなりにマスコミ馴れしている人間は、私よりももっと経験を積んでいたり、情報も知っていたりするから、どのようなコメントをすればいいか、わかっている。が、「わかっている」と思っているがゆえに、状況を読み誤まる。「わかっている」と思っているがゆえに、脊髄反射だけのコメントをしてしまうから。状況を右から左へ受け流すだけになってしまいがちだから。
私が今回の騒動に、興味が惹かれるところは、ただ一点。そういう「わかっている」つもりなだけの「事情通」があぶりだされるのではないか、という点においてだけ。


さすがに、もう一方の雄は、『官邸崩壊』の著者に執筆を依頼、どのような事態が起こっても大丈夫なような記事に仕上げている。*2

やれやれ、また、こういうことを書いてしまう自分に嫌気がさす。それ以上に、この手のことで、政治が空転することに対しては、もっと嫌気がさすし、我慢がならない。

*1:KOIZUMI内閣のときは、そういうふうなことを言っていた評論家も、今回は、読み違えていたようだ。「人柄や清廉潔白さ」で評価するから、つい状況を読み違えてしまうんではないか

*2:しっかし、この人、野党のときは、ちょっと弱いね。著書や記事を読む限りでは、霞ヶ関と与党には強いネタモトがいそうなんだけど。