ああ、また悪酔いして、何がいいたいんだか、さっぱりわからなくなっている。

帰宅後、どうしてもひとりになりたくて*1、居酒屋に。
駅から自宅まで歩く途中に何度も、川本三郎『ちょっとそこまで』(講談社文庫)のこうい一節が、よぎった*2

中規模の町のよさは実は「下町的暖かさ」「人間的ぬくもり」にあるのではない。むしろ逆で何の変哲もない、どこにでもある匿名性にある。こういう街に途中下車して歩いているときに、ひとはどこよりも都市のよさである匿名性、充実した孤独を楽しむことができる。そのことは実際に散歩してみるとわかる。こういう町ではまずほとんど知人に会うということがない。

新宿や銀座も好きだ(私はここ一年、新宿、渋谷、池袋、銀座、それに神保町ばかりぶらぶらしている)けれど、「匿名性、充実した孤独を楽しむ」なら別の町の方がよい。
それで、そういった楽しみを味わえる町に、一杯呑みに出かける。
帰りに本屋で

胸の中にて鳴る音あり

胸の中にて鳴る音あり

を買い、呑み足りなかったので、コンビニで「ブラックニッカ」を買う。つくづくいい時代にうまれたものだと思う、ウィスキーを買うときは特に。


この本の裏表紙の帯に「普通の人の普通の生き方の中に、真に胸を打つドラマがある」。私を含め、若くて、世間を知らない青い人間は「普通の人の普通の生き方」を馬鹿にしがちだ。だが……と思う。
私は、極めて、幸運な人間だ。このブログを偶然ある方が読んでくれていて、たまたま週刊誌の書評連載の話をいただいた。これほどの幸運を甘受している人間を、私は他に知らない。だからこそ、このチャンスをいかさなければと思っている。
その一方で、私は、たまさかの幸運を手にしたからといって、調子に乗っている人間を嫌う(って言っている自分が、「調子に乗っている」というほかない言葉を口にしているんだけれどさ)。不誠実な言葉を口にしている(と私には見える)人間に対して。否、ちょっと違う。そういう不誠実な言葉を口にしてしまう自意識に対して、違和感を、否それを通り越して、怒りに近い感情すら覚えてしまう。
そういうことをカンタンに口にできるということに。ネット上の文章ではなく、それを活字にしてしまうことができるということに。


自分の文章をブログであれ、何であれ、「公」に言葉をする以上、なんかしら思うところがないといえば、嘘になる。何かしら、誰かにつながりたい、何かと誰かとつながりたい――否それも不正確だ、あわよくば、何かと何かを、何かと誰かを、誰かと誰かをつなげたい――という意識がある(まぁネットがコミュニケーションツールになるとは思っていないが)少なくとも、私は。


あぁ私は、一体何がいいたいのだろう? それは置いておいて(いいのだろうか?)。
「テレビ」より「新聞」の影響力が小さい。
「新聞」より「雑誌」の方が小さい。
「雑誌」よりも「ネット」の方が小さい。
でも、だ。その大きさゆえに及ぼすであろう、社会や世間といったものに対する影響力の大小は、個人に対する影響力の場合、反比例する。
たとえば、自分の信頼している「ブログ」の書評は、新聞の書評よりも購買に及ぼす影響力は強いのではないか?


本や雑誌は、「ターゲットメディア」であること――つまり、数は少なくとも、ある個人に及ぼす影響力にかけてはテレビや新聞よりも強いということ――を優位としてきた。だが、「ブログ」は、さらに「ターゲットメディア」だ。
だが、「ブログ」ではショーバイにならない。何とかショーバイにすることにかけて、出版業界、本や雑誌は、新聞やテレビ、そしてネットより「一日の長」がある。そこに出版社の強みというものがあるのではないか……と思う。

長々と酔っぱらいの戯れ言を失礼しました。

*1:そして、何かにつかれていたのでと、いま、書いたけれど、一体私は何に「つかれて」いたのだろう? ひとつは来週月曜日に発売される「週刊現代」の自分の文章にある。自分の言葉は結局、自分に跳ね返ってくる。特に酔っているときに口にした言葉や、活字になった自分の文章は。

*2:といっても、記憶力が悪い私は、正確には思い出せなかったんだけれど