90年代と<ゼロ年代>と

この辺の時代感は、なんていったらいいんだろう?と、「フリースタイル」を読みながら漠然と思ったことが、意外と重要かもしれないと感じたので、ちょっと長めに。

90年代と「ゼロ年代」の違いはこんなところにあるんではないか、って気がしている。

ゼロ年代は、――つくり手というか、送り手側は――「こちらは計算して、こういう設定をしてるんですよ。(だから、そういう読みや批判は)当然、想定してます」っていう、メタ的な視点を、スタンスを感じる。
それに比べて、90年代は、もっと「郵便論的」なのではないか、と思う。決して「無意識過剰」なわけではない*1し、自意識があることについては認めながら、「無意識」であるかのように振る舞うのが、ゼロ年代じゃないか*2
つまり、誤読や誤配を許容しない。


一方、90年代のスタンスというのは、誤読や誤配を許容するというものではないか――というか、その「誤」のなかに、ある種の希望を託しているのが、90年代のスタンスか。

おそらくゼロ年代の人たちは、ポッドキャストは聴いても、ラジオでは聞かない。
それは決して、センスのアリナシに起因することではなくて、リアルタイムでラジオを聴くかどうかとか、雑誌連載ではなくて単行本でまとめて読むとか、そういう習慣の違いがあるよーな気がしてならない。で、そういう習慣の違いは、決して――よくも悪くも――小さくないと思う。

で、誤読や誤配の可能性に希望を託している私は、だからこそ、リアルタイムだからこそ書ける何かを書きたい。ユーチューブやニコニコ動画で繰り返し何度でも映像を見られる、複製技術時代だからこそ、書きの残さなければならない何かを。記録しなければ、記憶までもが胡散霧消してしまいかねない、何かを。

酔っ払って、自分でも何だかよくわからなくなってきたので、この辺で。

*1:これは©江藤淳と書くべきなのか、それとも石原慎太郎と書くべきなのか。あるいは、阿川佐和子吉田豪と記すべきなのか……。おそらく、ゼロ年代的なものは、「動物化するポストモダなン」的な状況の中においての「無意識過剰」であって、メタ自意識、つまり自己防御的な――「あらゆる批判がくるのも想定済みですよ、その上で私は発言するのです」という、すなわち神の視座に立ち、どんな批判であっても、自分は絶対に血を流さずに済むことを想定した上での――「意識過剰」な気が、なんとなくする。まっ、誤解を招くことを承知でいえば、「草食系男子」じゃないか

*2:で、さらに、大雑把であることを承知で記すならば、だからこそ、ゼロ年代のモノカキは、リアルタイムについては書けるかもしれないが、時代を描くことはできないのではないか。というか、時代を描こうなんて、思ってもいないんではないか