近所の図書館にて。

 いまの若者は最初から中流だった。少なくとも物質的にはそうだった。その状態で、二十年、三十年生きてきたから、目指すものが何もない。ある人はドストエフスキーを読んでいる。それは好きだからだ。ある人は漫画を読む。それも好きだからだ。同じ価値だということです。ドフトエフスキーが教養で、漫画は違うとは思わない。
 あらゆるものが非常に平面的に、強弱なく、等価値で置かれている。だから、勉強も好きだからやるものだと考える。働くのも好きだから働く。嫌なら働かない。正社員になること、アルバイトすること、遊ぶことへの距離感が、全部同じなのではないでしょうか。どっちかが中心とか、主だとかいうことが昔と比べてなくなってきている。(96ページ)

これって、20年前から田中康夫が唱えていたテーゼ「ヴィトンも岩波文庫も同じブランド品です」と同じでは? いまに始まったことじゃないのではないか。
また三浦氏は、「これは悪い社会になりつつあるのでしょうか?」というインタビュアーの質問にこう答えている。

 いや、必ずしもそうは思いません。生きるため、お金のために働かなくていい社会というのは、実は人類の理想社会ですよね。
(中略)
この間、中国から来た留学生が面白いことを言っていましたよ。「日本の若者は素晴らしい。生きるため、食べるために働かない。みんないつも自分は何なのか、何のために生きるのかを考えている。それはまるで荘子の思想のようだ」と。

<生きるため、お金のために働かなくてもいい社会>=働きたいときに働いて、働きたくないときには働かない社会は、確かマルクスが『資本論』で描いた理想社会ではなかったか。


梅森浩一『「クビ」論』(朝日新聞社 2003年6月発行)「クビ!」論。 (朝日文庫)
帯に「私は1000人の社員のクビを切りました。」「日本企業のリストラは、本当のリストラじゃない!」」「『クビキラー』と恐れられた元外資系人事部長が語る異色の体験的雇用論」とあるし、この手の本を倦厭していたが、これからの仕事を鑑みて「一応読んでおくか」とパラパラ読んだら、リストラされる側の社員にとっても、リストラする側の企業にとっても「ウィン-ウィン」なリストラの仕方を描いていて、結構面白かった。